「女王ヴィクトリア 愛に生きる」知っておきたい10のこと
①実は女王にはならなかったかも?
1819年、ジョージ3世の4男・ケント公の一人娘として生まれたヴィクトリア。彼女の誕生には、ちょっとした裏事情があります。というのも、この頃の英国王室は深刻な世継ぎ問題に悩まされていたのです。
1817年にケント公の長兄・摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)の一人娘、シャーロットがお産の床で死去(彼女の夫がヴイクトリアの叔父、ベルギー国王となったレオポルドです)。庶子はゴロゴロいたものの、いずれ王位を継ぐ嫡出子が全くいない状態。
そこで、国王と議会は、然るべき家柄の女性と結婚をして子供をもうければ資金援助すると王子たちに持ち掛けます。これに飛びついたのがヴィクトリアの父、ケント公。積もりに積もった借金をチャラにしてもらうべく、同棲までしていた愛人をさっさと捨て、未亡人となっていたドイツの公女ヴィクトリアと結婚したのです。
かくして生まれたヴィクトリア、生誕時の王位継承順位は伯父3人+父に次ぐ第5位でしたが、彼らの死去により、18歳でジョージ4世の弟ウィリアム4世から玉座を受け継ぎました。父ケント公のちょっと不純な動機がなければ、偉大な女王ヴィクトリアは生まれていなかったのかもしれませんね。
ちなみにヴィクトリア、母が再婚だったため父親違いの兄と姉がいます。即位してすぐ兄にガーター勲章を授与、姉とは生涯にわたって文通を続けるなど、仲が良かったようです。
②在位期間は歴代2位
1066年、征服王ウィリアム1世の戴冠からその歴史が始まった英国王室。
社会情勢や医学の進歩といった事情もあるので一概には言えませんが、40人あまりいる歴代君主のうち在位期間が長いトップ6人は以下の通り。
1. エリザベス2世(70年)
2. ヴィクトリア女王(63年)
3. ジョージ3世(59年)※ヴィクトリア女王の祖父
4. ヘンリー3世(56年)※マグナ・カルタに署名したジョン王の息子
5. エドワード3世(50年)※ヘンリー3世の孫、百年戦争開戦時の王
6. エリザベス1世(44年)
長い英国王室の歴史の中でも、女王はたった7人。そのうち3人が40年以上在位したとは、イギリスが女王の国だというイメージがついているのも頷けます。
ヴィクトリア女王のもとで大英帝国は繁栄を極め、植民地政策で世界の4分の1を掌中におさめました。香港のヴィクトリア・ハーバー、カナダのヴィクトリア島、ケニアのヴィクトリア滝など、ヴィクトリアの名にちなんだものはこの時代の名残です。
③とっても小柄
ちょっと不敵ではありますが、ヴィクトリア女王の肖像画や写真を見たら「この人よく肥えてらっしゃるなあ...」と誰しも思うはず。出産や加齢などで体型は変わるものですが、ヴイクトリアの場合は幼少時からころころしていました。
ドラマでも「ママも私の身長を笑った!」とヒステリーを起こすシーンがありましたが、身長は145cm未満と、とっても小柄。
しかも結婚前には既に体重56kg、晩年には80kg近くにもなりました。メルバーン首相は肥満体質は血筋のせいだと慰めたそうですが、息子のエドワードもだいぶでっぷりしているので、本当に血筋だったのかもしれません。
ちなみに、美貌のハプスブルク皇妃エリザベートの愛娘であるマリー・ヴァレリーは、母と共にヴィクトリアを訪問したことがあるのですが....「あんなに太った女性は初めて見た」となんとも率直な感想を日記に残しています。
④意外と惚れっぽい
幼馴染で従兄弟でもあるアルバートに「二度目惚れ」し、自らプロポーズしたヴィクトリア。42歳で未亡人となった後は終生喪服で通し、亡き夫を偲ぶ銅像や霊廟・回顧録を作るなど、生涯アルバートを熱愛しました。
とにかく直情的なヴィクトリア、恋愛感情ではなくても、好き嫌いは大変激しかったようです。
例えば、ヴィクトリアの偏愛ぶりは臣下にも発揮されました。
結婚前のメルバーン子爵に勝るとも劣らぬ寵愛を受けたのが、保守党のディズレーリ(こちらもメルバーン同様、後に首相となる)です。もともとはあまり彼に良い印象を持っていなかったヴィクトリアでしたが、アルバート亡き後、励まし支えてくれたディズレーリに次第に好感を抱くようになります。
ディズレーリが引退した後も親しく文通を続け、葬儀の際には彼の好きな花を手向け、石碑を建立するなど、最期まで「大事な友人」として手厚く遇しました。
一方、大嫌いだったグラッドストンの死去の際には「は?全然気の毒だと思ってないのに、何で『お気の毒に」って言わなきやならないの?」とお悔やみを拒否しています。
また、一度気に入りさえすれば身分も人種も関係ありませんでした。
アルバート亡き後、気晴らしの乗馬が増えたことからスコットランド人の従僕ジョン・ブラウンと親密になり、一時は「ミセス・ブラウン」と揶揄される事態にまでなります。彼との友情も生涯変わることはなく、ブラウンの死去の際にも、彼の部屋に毎日バラを供えさせています。
この騒動は『Queen Victoria 至上の恋』というタイトルで映画化されています。インド人の青年アブドゥルとの友情を描いた「ヴィクトリア女王 最期の秘密』と同じく、ジュディ・デンチがヴィクトリア女王を演じました。
⑤実は苦労人だったアルバート
ヴィクトリアとアルバートは単にいとこ同士という血縁の他、共に片親のもとで育ったという共通点があります。ドラマでも触れられていますが、夫の派手な女遊びに辟易し、意趣返しとばかりに傭兵隊長と不倫し離婚された母とは、一切の連絡を禁じられ二度と会えなかったアルバート兄弟(母は後に30歳で病死)。生後8ヶ月で父を亡くしたヴィクトリアと、5歳で母を失ったアルバートには、お互い温かな家庭への憧れがあったのかもしれません。
結婚後のアルバートが何より悩まされたのは「ドイツ人」であること。ハノーヴァー朝の君主は6人全員、母親と配者がドイツ人なため、ヴィクトリアも英国女王とはいえ血筋的にはドイツ人なので、これを言い出すとややこしいことになるのですが...。
ともかくアルバートは、短気でわがままな妻と外国人を嫌う国民に挟まれつつ、自身の在り方を模索します。ヴイクトリアの度重なる妊娠・出産の間に公務を補佐した実績も手伝って、地道な努力が実を結び、徐々に議会や臣下の頼を勝ち得ていきました。アルバートはもともと頭脳明晰だったこともあり、あくまで大英帝国の象徴ではあるけれども政治的センスはさほどなかったヴィクトリアに代わって、実質的には君主の役目を果たしたため、「旦那さんの言うことちゃんと聞いてね」と結婚前にアドバイスしたメルバーンは先見の明があったと言えるでしょう。
しかし、アルバートの功績が認められるまでにはだいぶかかり、結婚後17年も経ってようやく「王配殿下」(プリンス・コンソート)の地位が与えられます。腸チフスのため42歳の若さで亡くなる、わずか4年前のことでした。
更に、アルバートは死後も王室の危機を救いました。夫亡き後ふさぎ込んで仕事をせず、従僕ブラウンとの仲が噂される女王など廃位し、共和政に移行するべきだと世論が強まっていた中、皇太子が父の命を奪った腸チフスにかかります。一時は危篤状態に陥ったものの、なんとアルバートの命日である12月14日に回復。この出来事が喧伝され、女王と皇太子の人気は再び高まり、王室廃止論は吹き飛んでしまったのです。
⑥母と息子は犬猿の仲
ヴィクトリア&アルバート夫妻を悩ませた後継者が、放蕩ぶりで鳴らしたエドワード7世。美貌の高いデンマーク王女アレクサンドラを妻に迎え、少しは女遊びもマシになるかと思いきや、愛人とっかえひっかえは相変わらず...。長女ヴィクトリアの出来がなまじ良かったため、余計に息子の不出来さが際立ったといえます。
極めつけは、息子の不品行をなだめるため、病をおして出かけたアルバートが急死してしまったこと。「この出来損ないのバカ息子のせいで私のアルバートが死んだ!」とヴィクトリアはますます息子を忌み嫌うようになります。
女王に寵愛されたディズレーリは皇太子を冷遇し、反対に女王と敵対するグラッドストンは皇太子の肩を持つ...という具合に、母子の不仲は側近同士の争いにも発展するほどでした(後にエドワードは母の反対を押し切り、恩義のあるグラッドストンの葬儀に出席しています)。
母が長命だったため、エドワード7世の御代は10年にも満たない短期間でしたが、厳粛なヴィクトリアと違い、陽気で明るい性格だったため国民からの人気は高かったようです。また、両親から「出来損ない」の烙印を押され続けたにも関わらず、意外にも外交問題を中心に手腕を発揮。特に人種の偏見も持ち合わせておらず、かつての敵国にあたるロシアやフランス、ひいては新興国だった日本とも連携関係を築くなど、「ピースメーカー」の名を奉られています。
ちなみに、彼の最後の「ロイヤル・ミストレス」アリス・ケッペルの曾孫にあたるのが、現チャールズ3世と再婚したカミラ妃です。
⑦大の愛犬家
ドラマにも登場するヴィクトリア女王の愛犬、ダッシュ。まだ即位する前、幼い頃の誕生日プレゼントとして贈られたダッシュは、単なるペットではなく、君主となる運命を背負わされたヴィクトリアの孤独と不安を慰めてくれた友達でした。
ヴィクトリアはダッシュの死後もコリー、テリア、ダックスフンド、ポメラニアン、パグなど生涯にわたって犬を身近に置いていました。
なかでも女王を虜にしたのがポメラニアン!
当時のポメラニアンはまだ大型犬。これを小型化させるべく熱心にブリーディングを重ねたのが、ヴィクトリア女王です。その熱意たるやすさまじく、ドッグショーに「ウィンザー・マルコ」という名前のポメラニアンを出場させるほど。王族や上流階級の間でポメラニアンは爆発的な人気となり、現在に至るまで人気犬種の上位を占めています。
ちなみに、タイタニック号沈没事故で生還した3頭のうち、2頭がポメラニアンでした。
⑧女王が元祖。ヴィクトリアが始めた3つのこと
・純白のウエディングドレス
今でこそ白が定着しているウエディングドレスですが、元祖はほかでもないヴィクトリア。デボンシャー州の特産品であるホニトンレースやシルクが、ドレスにもヴェールにもふんだんに使われました。当時のホニトンレースは、ベルギーのブラッセルレースに押されて存続の危機にあったのですが、女王のウエディングドレスに使われたことで再び活性化。ヴェールは後に、末娘ベアトリスの嫁入り道具となりました。
また、王冠ではなくオレンジの花を髪に飾るというシンプルな装いも、それまでの王室においては画期的でした。
・クリスマスを祝う習慣
今では当たり前のクリスマスツリーを飾る習慣は、実はドイツ特有のものでした。これを、ドイツ人であるアルバートが王室に持ち込んだことにより、イギリスの一般家庭の間でも家族でツリーを飾り、クリスマスを祝う風習が定着することになったのです。
女王夫妻が子供たちと仲良くツリーの飾りつけをしている写真が公開されたことも、「模範的な家族像」を普及させるのに一役買ったようですね。
・住居はバッキンガム宮殿
ヴィクトリアは即位してすぐ、先代の国王ウィリアム4世の所有物だったバッキンガム宮殿に移り住みました。しかし、改築に着手したジョージ4世が途中で死去したこともあり、子供部屋も来客用の寝室もない....と問題だらけの新居だった模様。
バッキンガム宮殿が現在のように、公務を行う場とロイヤルファミリーの住居という二重の役割を両立できるようになったのは、ヴィクトリアが改修させた結果です。
⑨ヨーロッパの祖母
ヴィクトリアとアルバートは4男5女の9子を儲けました。
長女:ヴィクトリア(ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后)
長男:アルバート・エドワード(サクス=コバーグ=ゴータ朝初代国王エドワード7世)
次女:アリス(ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃)
次男:アルフレッド(ザクセン=コーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵)
三女:ヘレナ(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人)
四女:ルイーズ(アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人)
三男:アーサー(コノート公爵)
四男:レオポルド(オールバニ公爵)
五女:ベアトリス(バッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツ夫人)
この9人が更に子供をもうけ、またその子供たちが...という具合に脈々と血は続き、40人の孫と37人の曾孫が誕生しました。ヴィクトリア女王が「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれている所以です。
⑩血友病の保因者
しかし、「ヨーロッパの祖母」の偉大なる血には弊害もありました。
血友病です。
アルバートはおろかヴィクトリアの家系にもそれまで血友病は出ていないため、おそらく突然変異で女王が保因者になったと推察されています。
ヴィクトリアの9人の子供のうち、保因者だと判明しているのは3人です。
・次女アリス
2男5女のうち次男が発現者、三女と四女が保因者でした。
次男フリードリヒは窓から転落後、脳内出血のため2歳で亡くなりました。
プロイセン王子ハインリヒ妃となった三女・イレーネは、息子3人のうち2人が発現者でした。長男ヴァルデマールはアメリカ軍の医療施設接収により輸血がかなわず56歳で死去、三男ハインリヒは4歳で頭を打ち脳内出血のため死去しています。
四女・アリックスは、革命で一家惨殺されたロシア皇帝ニコライ2世妃。1男4女のうちアレクセイ太子が発現、後の調査により四女アナスタシアも保因者であることが判明しました。
・四男レオポルド
ヴィクトリア女王の子孫のうち最初の発現者です。血友病併発の関節痛治療のための療養先で転倒し、膝からの出血過多と頭部打撲による脳内出血のため30歳で死去しました。
血友病の因子はX染色体に含まれるため、必然的に娘アリスも保因者であり、その息子トレメイトン卿も発現しました。彼も自動車事故で頭を打ち、脳内出血のため21歳で死去しています。
・五女ベアトリス
3男1女のうち、次男と三男が発現者、娘が保因者でした。ただし、次男は手術中の事故、三男は戦死のため、血友病が直接の死因ではありません。
娘ヴィクトリアがスペイン国王アルフォンソ13世の妃となったことから、血友病の遺伝子がスペイン王室に流れることとなりました。5男2女のうち、長男と五男が発現者です。長男アルフォンソは自動車事故で内出血を起こし、31歳で死去。五男ゴンサーロも19歳の時に姉と共に自動車事故に遭い、両者とも軽傷に見えたものの、腹部を打っていたため2日後に死去しました。
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